16. 記録

介護サービスは毎回実施記録を残していく。私たちも記録をつけていた。食事の量 [ムース1個=0.4]  として1回の食事で 1.0が目標。食事にかかった時間。体温、排便の有無、飲んだ薬。最初に設定したこの記録、あっという間に、1)薬が飲めなくなり、2)食べる目標を離れ過ぎた。

薬は砕いて、「らくらくごっくんゼリー」で飲んでもらっていたが、飲むのが大変で早い時期に断念。元々、脳梗塞の再発防止、整腸などの薬で必須とは言えなかった。記録を見て落ち込むし、わかりづらいので、途中で [ムース1個=0.5 ]に修正。それでも3ヶ月後くらいから、食べられる量の減少は顕著で、食べるのに時間がかかるようになった。書き忘れていたが、食べる際は一口ごとに「ごっくん」と飲み込む、これを確認して次の一口を入れる。この記録は母が亡くなる5日前くらいまで続けた。私たちは頑張った。

最期近くに2回ほど熱を出した。1回は横向きの身体を支えられないほどだった。限界が近づいたか、食べてもらうのも、食べられないのも、どちらも苦しい。タンの絡みが一層ひどくなる。

記録を振り返って、まだ身体に力が残っているうちは、短期間なら食べられなくても復帰をみた。たまに行ってもらった水分点滴(皮下点滴)のおかげもあったように見える。最初母は水分点滴を嫌がったので、母には別の感覚があったのかもしれない。最期近くの水分点滴の判断は否応なしに私たちの判断になった。食べられる量の極端な低下に私たちの焦りが加わったこともあったかもしれない。記録のどこかには戻れなくなるラインがあったのだろうか。

 







 

15. 食(3)

だんだん食が細くなっていく。一食あたり「ムース2個+アルファ」を 食べてもらう計画が、毎食半分くらいになった。この頃は食事をしている間に寝てしまっているようで、大きな声をかけながら食べてもらう。ヨダレが出てくることが多くなり、これ以上無理と判断して食事を終わりにすることが増えた。タンが絡むことも多い。代替え食品も考えられるものがなくなった。ムースの口への運び方も大分と考え、一口分を少なくして舌に乗せ、追加でお茶を入れることで飲み込んでもらう方式にした。

ルタオのドゥーブルフロマージュだけは結構後まで食べてくれた。もちろん柔らかい部分だけであるが。一緒に家族旅行した北海道小樽のケーキなのでとても嬉しい。そして本当にわずかしか食べられない事態が起きた。最初は絡んだタンを取ることで多少解決できたが、それも難しくなった。この頃母に「ずっと食べさせてくれる」と頼まれた。これが、母が話すのをはっきり聞いた最後くらいかもしれない。いつもどおり東京に戻った。後悔は深い。どこかでもう少し長く時間をとっていたらもしかしたら、、と思う気持ちはあるが、生き方は変えられなかった。母は食べられることへの希望を繋げなくなったのかもしれない。

 







 

14. 母@ベッドで

冬の時期に「寒い、寒い」と頻繁に訴えて、湯タンポを使った。湯タンポはネットで購入。今や使われることが少なくなったと思われる湯タンポ、小ぶりで今風になり、十分に役立ったようである。暖房を入れていたが乾燥する。電気のパネルヒーターを使っていたのが壊れて、似ている物をネット購入。このヒーター悪くないが、8時間くらいすると切れてしまう。暖房とパネルヒーターを使い分けながら、まずまずの環境を維持。加湿は簡単な水分蒸発タイプ。

オシャレだった母はパジャマ生活。衣替えをし、夏パジャマになって、2枚を交代に着るがそれでも時々、手袋や湯タンポ。気持ちの良い風の入る季節は母にやさしい。

 

介護サービスの人達は母をきれいだと言った。もちろんお世辞込みであろう。 “つぶらな瞳”は母が介護される生活に入ってから持った特質のように思う。痩せてしまったせいもあるだろう。入浴サービスできれいにしてもらい、世話をしてもらう母は、長い間ベッドにいて失ってしまいがちな尊厳を保っていたと思う。素直に生きること、治ることを信じて、サービスを受け始めた。病院から家に戻って、「家はいい」と言ってくれた。母に孫は抱かせられなかったが、母はかわいいおばあちゃんになった。

 

 






 

13. 側で

母の側で。食事以外の時間に何をしていたか。

最初はリハビリと思って、話すこと、書いてもらうこと、に努めた。両親は幾度も海外旅行に行き、その写真や、私の知らないところでの未整理の写真がたくさんあったので、写真を一緒に眺めたりしながら話をした。「これはどこ?」「カナダ?」、「これはあのティーカップを買った時の?」こちらが予想して答えを探らないとあまり答えは返ってこない。とってもおしゃべりだったのに。

部屋の中にあるものの思い出や由来を尋ねた。あの布袋さんはどうしたの?「売りに来たの」時代だなあ。今なら即お断り。

母が寝ている時は、近くで本を読んだりしていることもあった。途中からはあまり話ができなくなり、リハビリにちょっと腕の上げ下げや、足のマッサージなどをするようになった。

もちろん、側にばかりいたわけではないけれど。

 







 

12. 横向き

母は最初普通に仰向きで寝ていたが、春頃から横向きを好むようになった。これは舌を通常の位置に置いておくことが難しくなって、仰向けで寝ていると舌が喉を塞ぎ、辛そうになってきたことと一致しているように見えた。昼間は「横向き」にしようと言って、外の見える左向き、家の中が見える右向きと適当な角度に誘導した。次第に夜も横向きになった。ベッドの柵につかまることが増えたのは身体の安定や視力の衰えも相まっていたと思う。

次第に“タン“が絡むことが増えて、看護師がタンを吸引除去する装置を持ってきてくれた。姉はこの装置をしばしば使ったが、私は口腔掃除用のスポンジで絡めとる方を選んだ。母もこの方法を好んだように思う。横向きは絡んだタンを除去するのにも都合が良かった。ある程度の時間横向きでいると、下側にたまるタンが比較的楽に除けた。

 







 

11. 食(2)

食事は私たち家族が母の口まで運ぶ。これはサービス業者がやらないサービス。つまり、食べることができなくなるか、口まで運ぶことができなくなった時に最期がやってくるお約束。

手際でむせさせてしまうのか、仕方ない範囲なのか、母の様子を見ながら、食事を口に運ぶ。最初は色々考えて用意した食事、だんだん一番食べやすい「ムース」とお茶だけになってきた。記録をつけていると食べる量が減っていくのがわかる。一計を案じた。ムースの栄養アップである。栄養補給に使われる「アミノバイタル」の顆粒を適量入れてみた。溶けるかどうか、味が変わらないか。試したところ大丈夫らしい。お茶が飲めるうちはこのムースを半分採用することにした。取れる水分が少なくなったらこの作戦はちょっと怖い。水分は大事だ。栄養、エネルギーをと焦っても、バランスに気をつけて食べてもらえる範囲、以外にできることはない。

嚥下困難では誤嚥性肺炎に気をつけなければならない。母はよくむせて心配になったが、誤嚥よりはむしろ、窒息させてしまわない方が大切かもしれないと思うようになった。“ムセル”は防御でも体力を使ってしまう。食べる側の慣れ、食べてもらう側とのタイミング、意思疎通、信頼関係は大事だ。「食べてもらいたい」という意識が強すぎて無理をさせた時もあったと思う。状態、様子を見るは基本だ。食事にかかる時間は、担当する私と姉で大違い。私はなるべく短い時間の方がいいと思うので、正味30分くらい、が、だんだん時間がかかるようになって1時間くらい。姉は私の2倍くらいの時間をかけて食べてもらっていた。それはどちらにとっても大変そうだ。

 



 

 

10. 視力

4月、母は目が見えないと不調を訴えた。かなり見づらいようだ。

元々、目には眼底出血、白内障(手術済み)、加齢性黄斑、などの問題を抱え、眼科で治療を受けていた。予約なしで行った眼科は混雑しており、午後一番くらいに行ったが、診療が終わったのは最終7時頃。半日がかり。丁寧に診察はしてくれたようだが、検査を含めて飛び飛び、「緑内障か?」で主要病院に紹介状を書いてくれた。車イスで半日近く座っていられたのは収穫だが、本人は大分疲れたようで心配。往復は福祉タクシー。車イスは小さめ軽量でもそれなりに場所が必要で固定も必要。最近は福祉タクシーも増えているそうだ。その後、大きな病院に行くには体力がないと判断しそのままとなった。

ベッドの側に置いたテレビは見なくなったので、視野がだんだん悪くなっていったものと思う。最初の頃は、一緒に写真を見たり、掛け軸を気にしたり、窓外風景を見たりしていたが、だんだん気が逸れていくのがわかった。栄養不足もひどくなっていけば、それも視野に影響しただろう。だからこそ、声を出して人を呼んでいたと思う。ずっと一緒にいた姉は、器用ではなくても、間違いなく母の命を繋いでいた。